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2008-06-07かたわ少女

[]水彩1/2

 最初はクレヨンだった。紙を巻いてある赤色クレヨン。右足の親指と人差し指の間に挟んで、立てかけた画板の上の画用紙にこすりつける。真っ直ぐの線。歪んだ線。波線。丸。三角。四角。目に映るもの。テレビ。テーブル。椅子。冷蔵庫。おかあさん。おとうさん。幼稚園の友達。鏡に映ったわたし。近所のおばさん。おじいさん。犬。猫。頭の中のもの。楽しい夢。怖い夢。

 曖昧でぼんやりとした線の集まりだったものが、少しずつちゃんとした形になっていった。赤だけだった色が、青や黄色、茶色や黒と増えていった。クレヨンが色鉛筆に替わり、やがて鉛筆と絵筆に落ち着いた。

 ずっと絵を描いている。それはわたしが短肢であることと無関係ではないのだと思う。生まれつき腕が短い。物を掴める手がない。もし手が使えていたら、もっと別のことに熱中していたのかもしれない。けれど、そんな自分が想像できなくて、絵を描かない自分が想像できなくて、悩んだり空白だったりして、ただぼんやりと描きかけの絵を眺めていたこともあった。ぼんやりと絵を眺めるのは、今でもたまにあるけれど。

 幼いころはパレットや絵の具ケースが目に見えるところにあるだけで上機嫌だった。小学二年生くらいまで、絵の具のキャップをうまく開けられなくて、よく先生や近くにいた子に開けてもらっていた。パレットの上に落とされた色。白。黄色。赤。青。それから黒。つやつやとした色達は皆おいしそうで、隣の席の子をそそのかして、一緒に少し舐めて、そのあとで先生に怒られたりもした。ぽつんと水を落とした絵の具同士を混ぜ合わせると別の色に変わり、それが楽しくていくつも混ぜ合わせて、まずそうな色になり悲しくなったこともあった。

 暇さえあれば描いていた。描きたくて描きたくて、いつしか毛抜きを使って絵の具のキャップを開けることを覚えた。そうするとわたしは紐を通した画用紙つきの画板と、絵の具セットを肩からかけて、よく公園や近くの川原や駅前の商店街へと出かけるようになった。まだ小学四年生くらいで、短肢の女の子がふらりといなくなって、なかなか帰ってこないわけだから、親や先生に心配されたり、怒られたりしたけれど、わたしは絵さえ描ければ満足で、怒られた翌日にでも川原にいって、日が暮れるまでずっと絵筆を握っていた。

 そうして描いた絵で、何度か賞をもらった。小学生に対する小さな賞だったけれど、怒られることのほうが多かったのが褒められて、嬉しくて、誇らしいような気持ちになって、ますます絵にのめり込んだ。

 猫を描いていたときだった。成猫になる途中の大人しい虎縞の子。公園のベンチの上で前足を枕のようにして眠っていて、わたしが近づいてもちらりと片目を開けただけで、また閉じて、そのあとはじっとモデルになってくれた。ベンチの足に立てかけた画板の上の画用紙に簡単に下書きしたあと、公園にきていた顔見知りのおばさんに頼んで水彩バケツに水を汲んでもらって、わたしはいつものように色を塗る準備をした。

 パレットの上で赤と黒が隣り合わせになった。色の並べ方なんか決めてなくて、たまたまそうなっていた。描いているうちに、水を含ませ過ぎた絵筆で、赤と黒が深く混ざった。

 ふっと頭の中が空白になった。何の考えもなくパレットの上でそれを混ぜ合わせていた。赤と黒。毒々しく綺麗な濃い血のような赤。目を奪われて、どうしてか息が苦しくなった。ゆっくりと呼吸してから、また絵に目を戻した。

 赤を滴らせた虎縞の猫が浮かんだ。どくんと心臓が鳴った。絵筆を持つ足が震えた。絵筆を足の親指と人差し指できゅっと握り締めて、いつの間にか毒々しい赤に染まった絵筆の先を画用紙に向けていた。絵筆が画用紙に近づいていくのを見つめた。怖い。ひどく怖かった。怖いのに、ゆっくりと絵筆は近づいていく。ゆっくり。息ができなかった。

 ベルの音を聞いた。あれはきっと目覚まし時計だったのだと思う。どこかの家の朝にセットしていた目覚ましが、何かの手違いで夕方の同じ時刻に鳴ったのだろう。そこではっと我に返り、荒く呼吸を始めた。絵筆を水彩バケツにつけた。絵の具がじわりと溶けて、透明だった水が赤黒く染まった。

 黄色と白と少しの黒を混ぜ合わせた色で、虎縞を塗った。ときどき赤を滴らせた猫が浮かんだ。首を振ったり唇を噛んだりして、何かを抑えつけながら猫の虎縞を塗り続けた。

 その猫の絵は少し大きな賞をもらった。それからパレットに絵の具を落とすとき、意識して赤と黒を並べるようにした。混ぜたりはしなかった。ただ、それを見ているといつも毒々しく綺麗な赤が浮かんだ。

 犬を描いた。また猫を描いた。鳥を描いた。川を描いた。公園を描いた。ブランコを描いた。滑り台を描いた。人を描いた。首を振って唇を噛んだ。何度か賞をもらった。胸の奥が、少しずつ、少しずつ苦しくなった。描くたびに苦しさが増した。けれど、描くことも、赤と黒を並べるのをやめることもできなかった。

 中学校には、それなりに有名だという美術の先生がいた。親にその人がいる学校だからと勧められたのだ。当然のことのように美術部に入った。背の高い男の人だった。長く伸ばした髪を後ろに括った教師らしくない人で、最初に色を塗るとき、パレットに絵の具を落とすところをじっと見つめられた。緊張して、人の目が怖くて、赤と黒を隣に並べるのを忘れた。美術の先生は、「スカートの下には短パンでも穿いておくように」と言った。それだけだった。ほっとした。ものすごく、ほっとした。短パンは夏とか蒸れそうだなと思った。そのときにやっと、赤と黒を並べるのをやめることができた。

 一週間くらいは椅子に座って描いていたけれど、落ちかけたりガタガタ鳴ったりして、小学校のときと同じように床に座って描くようになった。身体を折り曲げて足を浮かし、立てかけたパネルに色を塗っていく。部活の同級生に、「よくそんな体勢で描けるね、苦しくない?」と聞かれたこともあるけれど、赤と黒を並べていたときのほうがずっと苦しかった気がした。

 昔のように、描きたくてたまらないということも、描くたびに苦しさが増していくこともなかった。落ち着いた気分で絵を描けるようになった。そうやって描いたものは平凡で、賞とは縁がなくて、心の底で何か疼くものを感じながらも、わたしは穏やかな気持ちで絵筆を動かし続けていた。

 中二のとき。まだ寒い春先に、一度だけ大きなコンクールで賞をもらった。銀賞だったけれど、親も友達も美術の先生もとても喜んでくれた。もちろんわたしも嬉しかったのだけれど、ほっとしたような気持ちのほうが強かった。

 そのとき、ふと気づいた。わたしは、ずっと申し訳なく思っていたのだろう、と。

 わたしにこの学校を勧めてくれた親に対して。ずっと応援してくれていた友達に対して。期待を寄せてくれていた美術の先生に対して。それから、苦しみながらも描き続けていた過去の自分に対して。

 地域の作品展示会のような形で、ある小さな画廊でわたしの絵も展示されることになった。友達に連れられるようにして入った画廊の壁に、他の人の絵に混じってわたしの絵も飾られていた。絵はそこで明るい光を浴びていた。友達はしきりに褒めて、羨ましがって、自分のことのように喜んでくれた。わたしも笑顔を返していたけれど、気持ちがどこか遠くにあるような感じがした。そこに飾られていたわたしの絵は、わたしが描いたものであるはずなのに、わたしが描いたものではないような気がした。

 ふっと怒りのようなものが湧いた。目の前にある絵を、蹴り落として、踏みつけて、めちゃくちゃにしたい衝動に駆られた。話しかけてくる友達に、はにかんだ笑みを浮かべて、何とかそれを抑えつけた。

 それから色を塗れなくなった。パレットに色を落とすだけで気分が悪くなった。絵筆に絵の具をつけると、それがどんな柔らかな色であっても、あの毒々しく綺麗な赤が浮かんで眩暈がした。それでも、絵を描くことはやめられなかった。スケッチブックの上に鉛筆を滑らせるだけの、色の乏しい絵を描くようになった。あまり部室に寄らなくなり、放課後は一人でふらりと出歩くようになった。紐を通したスケッチブックを肩からかけて。子供のころとは違って絵の具セットは持たずに。

 四月を通り過ぎて、中学三年生になっても、スケッチブックだけが増えていった。周りは受験とこのまま中学生であり続けたいという気持ちとの狭間で揺れ動いたり、うっすらとした焦燥感をまとい始めたりしていた。そんなときでも、わたしはただスケッチブックの上に鉛筆を滑らせていた。

 夏休みの少し前、学校の外で知り合いができた。池のある公園で風景画を描いていた人だった。大学生くらいのどこかぼんやりとした男の人で、名前も教え合わなかったけれど、明日は何を描くだとか、来週はどこで描くかだとか、そんなことを言い合って、ときどき待ち合わせをしたかのように会って、すぐ近くの場所でぽつぽつと話しながら描いた。

 夏休みに入ってからも彼とはよく会っていた。ただ単に近くの場所で絵を描くだけのことなのだけれど、その時間は不思議と心地よかった。わたしは制服以外のときでもよくスカートを穿いていて、けれど彼はスカートの裾から見えるものが気になるらしく、言いづらそうにしながらも何度か注意された。美術の先生のように、「中に短パンを穿け」と、はっきりとは言えないみたいなのが楽しかった。実際、本当に暑かったのもあって、言い訳したり、からかったりして、そのあとの夏休みはずっとスカートで過ごした。中はパンツだけを穿いた。

「赤は、怖いね」

 夏休みも半ばを過ぎたある日、わたしはぽつりとそう呟いていた。広げたスケッチブックの上に、公園の木の陰が落ちていた。

「へえ」

「うん」

「どうして?」

 彼は池の水を緑と青に塗りながら穏やかに聞いた。わたしは猫のことを話した。小学生のときに描いた猫。色を塗るときにパレットの上で赤と黒が混ざって。それが毒々しくて綺麗で。怖くて。赤いものを滴らせた猫が浮かんで。抑えつけながら描いて。賞をもらって。それからずっと赤と黒を並べて。苦しくて。やめられなくて。でも、中学に上がってからはそんなこと気にしなくなって。

 猫のことを誰かに話したのはそのときが初めてだった。ちょっとした昔のエピソードのように話した。そんな思い込みの激しい子だったよ、という笑い話のように。

 彼は池を塗っていた手を止めて、ちらりとわたしの絵に目を向けた。画用紙の白。鉛筆の黒。わたしの絵には二種類の色しかなかった。

「その猫は……」

 彼は一旦絵筆を洗い、パレットから茶色を取って、池に映った木を描き始めた。

「ん?」

「生きてる?」

「……え?」

 わたしは顔を上げて彼の横顔を見つめた。彼は池の中の木を描き続けていた。

「車に轢かれたとか、そのあと見かけなくなったとか」

「あ……、ううん、ときどき公園で見かけたよ。よく昼寝してた」

「じゃあ、よかったんじゃないかな、それで」

「……そう?」

「その猫、嫌いだった?」

「別に。嫌いじゃなかったよ」

「だったら、猫を描いて、賞をもらって、褒められた。それだけだよ、きっと。いいことだ」

「……へえ」

「うん」

 ふうっと息を吐いた。今までずっと息を止めていた気がした。ふと、その猫が死んでいたのなら、わたしがそう言っていたのならどうするつもりだったのだろうと思って、でもそれは黙ったまま、ただこっそりと笑った。

 それから犬派か猫派かという話をした。わたしは猫のほうが好きで、彼はどちらかというと犬のほうが好きなようだった。そうしているうちに日が暮れて、別れ際に彼はぽつりと、「でも」と呟くように言った。

「でも、いつかまた赤と黒を並べられたらいいね。……いや、いいのかな?」

 彼は自分の言葉に首を傾げた。

「どうかなあ」

 わたしは口元で微笑みながら応えた。彼の言う通り、いつかそうなればいい気がした。それから何となく、近いうちに赤か黒のパンツを買おうと心に決めた。赤のほうが扇情的かなと思った。

 夏休み明けから部室に顔を出すようになった。見知らぬ顔が三つあり、驚いた顔の友達に新入部員だと紹介された。そういえばと、三年になってから一度も部室を覗いていなかったのを思い出した。美術の先生が苦虫を噛み潰したような苦笑を浮かべていたけれど、あまり気にしないようにして、久しぶりに部室の床に座り込んだ。イーゼルにスケッチブックを立てて、鉛筆を持って右足を浮かし、とりあえず「苦虫を噛み潰してその口の端から汁をこぼしている美術の先生」を描いた。頭をはたかれた。それをきっかけに後輩部員がわらわらと寄ってきて、小さな歓声を上げたり、無邪気な笑い声を上げたり、おそるおそるな感じで話しかけられたりした。

 友達は鉛筆を握った右足にちょっかいをかけてきた。なぞったりくすぐったりするその手を、膝や脛で攻撃した。怒ったような、むくれたような顔が何だか嬉しかった。色を塗るのはまだ怖かったけれど、知らないうちに背負っていた荷物を、ようやく下ろせたような気がした。

 秋になって、親にとある高校の資料を渡された。そこは家から通えるようなところではなく、ただ寮があって、わたしのような境遇の子を試験的に入れているらしかった。短肢の子や、身体の一部が不自由な子、盲目の子など。推薦入試のような形で、わたしの場合は小学生のときから絵で何度か賞を取っているということもあり、わりに簡単な試験を受けるだけで入れるという話だった。絵だけを描いて、まったく勉強をしてこなかった身としてはありがたい話だったのだけれど、寮に入るという、思ってもみなかった選択肢に少し驚いた。

 どうやらわたしは、自分の中に閉じこもっているのではないだろうかと思われていたらしい。ただ、考えてみると、それは決して間違いじゃないような気もした。こっそり買ってきてすぐに見つかった赤パンツも印象的に悪かったのかもしれない。親としてはもっと同世代の子とつき合いをしてほしかったのだろう。不安や反抗心などもなくはなかったけれど、選択肢も少なく、こだわりも特になかったから、推薦入試を受けて、そのあとで合格通知を受け取った。

 卒業間近になったある日、友達にさみしいというような顔をされて抱きつかれた。別々の高校にいく。寮に入るわけだからあまり会えなくなる。肩に回された友達の腕を感じながら、わたしにもちゃんとした腕があればいいのにと思った。友達の肩に頭を押しつけて、何度もぐりぐりとした。

 風景画の彼にも寮に入ることを言った。二月、風と寒さでさすがに絵を描くことを諦めて、公園近くの喫茶店で休んでいたときだった。わたしが簡単にそのことを説明すると、彼は「そうかあ」とさみしそうに目を細めた。わたしがそっと腕を差し出すと、彼は一瞬遅れて気づいた。袖に包まれた生まれつき短い腕と、いつも絵筆を握っている手とで握手をした。

 その日にようやく彼の名前を知った。住所と電話番号を書いたメモを交換した。そこに書かれていた彼の携帯番号を見つめながら、わたしは「手紙を書くよ」と言った。「ああ、俺も」と彼は静かに頷いた。

 沈黙が降りて、窓を叩く風の音が聞こえた。ふいに彼が「苦しかったら……」と言った。主語も、その後には続く言葉もなく、彼は何かを探しているように、何かを迷っているように目を泳がせていた。

 浮かんだのは、あの夏の日のこと。猫の話。彼の横顔と、池に映った木を描いていた絵筆。色の乏しいわたしの絵。それから、わたしが絵に色を塗るところを彼はまだ見ていないということ。

 わたしはちゃんと理解して、ちゃんと理解したつもりになって、「うん」とにっこり笑って頷いた。