2007-10-07二の腕の傷跡
二時間目終わりの休み時間、いつも一緒にいる友達はトイレにでもいっているのか、彼女は一人、机に突っ伏して項垂れていた。ときどき「あー」とか「うー」とか呻いている。二の腕を枕にして、短い髪の頭がその柔らかい肉を押し潰していた。
前に一度、試食したことがあった。腕の何ミリかをカッターで削って。「どこがいい?」と妙に嬉しそうに聞くので、俺は少し考えて、「やわいとこがいいかな」と答えた。
「やらしい」
「……やらしいのはお前の頭だ」
「やらしー」
「てめえがな」
「やーらーしー」
「人の話を聞けよ、と」
「まあ、いいけど」
かみ合わない会話のあと、彼女は自分の二の腕にカッターを押し当てた。削ぐように動かして、肉の欠片がカッターの刃に載った。みじん切りのタマネギほどの小さな欠片だったが、腕からは血がこぼれ、つーっと肘まで伝った。彼女は慌てて肘に顔を近づけ、舌を伸ばして舐め取ろうとした。届かなかった。結局、ティッシュで拭いて、傷バンを貼った。
欠片は小さすぎて何の味もしなかったが、彼女が「どう? どう?」と期待をこめた目をして聞くので、俺は「汗の味かな」と答えた。一瞬の間のあと、肩とか腕とかをばしばし叩かれた。
彼女の赤くなった顔を思い出して、自然と笑みが浮かんだ。
「どした?」
隣の机に腰かけながら聞くと、彼女は突っ伏したまま、「あー、何か、緊張する」と呻くように言った。
「何が?」
「だって……、今日でしょ?」
「ああ、うん、四時間目だったよな」
「やっぱ、緊張する」
「お前が緊張してもしゃあないよ」
「う……ん、そうなんだろうけど」
「まな板の上の鯉してりゃいいんだよ」
「あー、うん、恋とかしたかったなぁ」
「いや、その恋じゃなくて」
「あんたみたいなのとダベってるんじゃなくて」
「ムカつくな、おい」
他は知らないが、この学校では食用の人間も同じように授業を受ける。一クラスに一人ずつ。三年間、いや、二年と半年ほど同じ時間を過ごし、受験にさほど影響のない秋口にクラス全員で食べる。文部省や教育委員会が大好きな「情操教育の一環」というやつらしい。学校生活を共にしたクラスメイトを食べることで、命の大切さを知るとかなんとか。
ふいに彼女のほうから、くーっと妙に間抜けな音が聞こえた。明らかに腹の虫が鳴った音だった。彼女は、すっと頭を持ち上げ、ほのかに頬を赤くして、潤んだ目で俺を見すえる。食用の人間は、こういう日、食事を抜くことが多いのだとテレビや雑誌で見て知っていた。俺は礼儀正しくニマニマ笑って、手を伸ばし、彼女の頭を軽くぽすぽすと叩いた。
「触んな、バカ」
彼女は赤い顔のまま、俺の手を避けるように頭を振った。
だらだらとダベっていた小早川がふいに黙り、ちらりと俺の背後に目を向けた。おもむろに席を立つと、わざとらしく頭を掻きながら向かいの席に移った。その小早川に目で促されて振り向くと、彼女が立っていた。目が合って、何故かお互いすぐに逸らした。どこかぎこちない足取りで俺の背後を通り過ぎ、さっきまで小早川が座っていた席に、すとっと腰を下ろした。
「うっす」
「おう」
四時間目、家庭科室に移動して、チャイムが鳴るのを待っている。教壇の上には二メートルくらいの長さのまな板が置いてあり、肉切り包丁、ナタ、ノコギリといった、普段はあまり使わなそうな調理器具が並んでいた。
担任と家庭科教師が来るまで、俺と彼女は、乙一と仲間由紀恵の話をした。いつものまとまりない、他愛のない会話。彼女はやはり緊張しているようで、笑うときの頬が強張っている気がした。
「緊張してんなぁ」
「してないよ」
「そうすか」
「してるよ」
「どっちだよ」
「ツンデレだよ。察しろよバカ」
「それツンデレじゃないだろ」
チャイムが鳴って一分ほどしてから担任と家庭科教師が入ってきた。担任はやけに静かになった教室で出席を取ったあと、あらためて彼女の名前を呼んだ。彼女は瞬間びくりとして、一度ゆっくり深呼吸してから立ち上がった。
「……あっ」
それから何かに気づいたように小さく声を上げて、俺を見下ろす。戸惑いと驚きが入り混じった表情。俺はわけがわからず、軽く首を傾げる。数秒、短く長い時間を見つめ合い、それから彼女は諦めたようなため息をついた。俺がそのため息の意味を考えている間に、彼女はゆっくりと制服を脱ぎはじめた。
ああ、そういうことか、と俺は胸の中で呟いた。人は食べ物だが、服は食べ物じゃない。緊張やら何やらで今までそのことに気づかなかったらしい。服を脱ぐとき、隣にいるのが女友達なら、また気持ちも違ったのだろう。彼女は脱いだブラウスとスカートを畳んで席に置いた。
「じろじろ見んなよ、やらしい」
薄緑色のブラのホックに手をかけながら言う。
「いや、見てたわけじゃ……」
いいわけするみたいに口の中でもごもご言って、慌てて目を逸らすが、いわゆる思春期というどうにもままならない時期を迎えている俺の目は、ちらちらと彼女のほうを覗き見ていた。
グラビアアイドルとは全然違う薄い胸。肋骨と腰骨が浮き出ていて、痛そうな印象だった。ブラと同じ色のパンツ。脱ぐときにちらりと見えた陰毛は薄く、けれどすぐに手で隠されてしまったせいで、その奥までは見えなかった。
「やらしー」
「……うるせえ」
「やらしーよね?」
彼女は向かいの小早川に振る。
「おう、こいつはすげえやらしい」
小早川はそう張り切って答え、
「お前が言うな」
俺は反射的に突っ込んだ。
「あはははは」
右手で胸を、左手で股間を隠しながら、彼女は内緒話をするみたいに顔を寄せてきた。服を脱いでいる間に落ち着いたのか、そこにはもう緊張の色はない。
「じゃあね。うーんと、何だろう、ありがとう……、かな?」
「うーん、そんな感じかな。そっちも、な。……じゃあな」
「やわいとこが当たるといいね」
「ああ。何だ、頑張ってこ……って違うか」
「あはは、うん。頑張って、鯉してくるよ。まな板の上の」
「ああ、じゃあな」
「うん」
彼女は晴れやかな笑顔で頷いた。
教壇に向かう前に遠回りをして、彼女は仲のよかった女友達のところにいった。涙をずっと堪えていたらしい友達は、彼女に声をかけられて決壊した。言葉にならない呻きと、しゃくり上げる音。クラスメイトの何人かがそれに巻き込まれるように涙ぐんでいた。「おいしく食べてくれたらいいから」と彼女がなだめるように言うと、友達はまたぼろぼろと涙をこぼした。普段ふざけてばかりいる小早川でさえも、「おいしく食べてやるのが一番だよな」とやけに道徳的なことを言った。彼女の右手は友達の頭を撫で、左手は友達の涙を拭っている。俺はゆっくりと動いている彼女の腕を見つめていた。あの日、試食した二の腕は、右だっただろうか、左だっただろうか。彼女の腕は白くてなめらかで、綺麗で、欠片を切り取った跡なんて、もうどこにもなかった。
泣き止まない友達に、彼女は薄く苦笑を浮かべながら肩をすくめた。ため息をつきたそうに顔を上げたとき、ふと俺と目が合った。はっとした顔のあと、彼女はにんまりと笑って、「やらしー」と口の動きで言った。うるせえ。
(食人賞応募作品)
はじめましてですが、ちょっとnisinaoさんのこのブログに書いてある文章群が好きすぎて眼ん玉ふっとぶかと思いました。ツボです。好きです。これからも頑張ってください。
宜しければグループにも入れさせていただきました。よろしくお願いします。
かなり昔のまで読まれてしまったようで、嬉しいやら恥ずかしいやら。ありがとうございます。更新はやっぱりかなり遅いんですが、まあ何か書いていきたいと思います。眼は生でそのままか軽く塩茹でするのが好みです。
グループは、特に規定とかも思いつかないので自由にやってください。よろしくお願いします。